設問1
文学が読まれなくなったのは、文学が読むべきものではなく、誰もが読めるものではないからである。
現代では文学はみんなが読むべきとされている。しかし、文学とはそれが面白いから読むもので、「読むべき」か否かという話は本来意味をなさない。そのため、文学とは「遊び」の一つであり、「遊ぶべき」ものがないように文学も「読むべき」ものではない。
また、文学を読もうと思えば読めるけど理由があって読めないという人がたくさんいる。しかし、そうではなく、その人たちは文学を(面白く)読めないのである。もし文学を面白く読めれば仕事や趣味の時間を削るなどして時間を作り出して読むだろうし、根気はいらないし、文学そのものは世に無数にあるからである。
文学を読んでいる人のすべてが文学を面白いから読むのではない。面白くないのに読んだりあれこれ言う人がいるから文学が難しく思われる。
しかし、こんな多数の人がいるからこそ文学はただの「遊び」ではなく、「幸福」を知ることなる証拠になる。「幸福」そのものを知らないと無関心でいられないから、その人たちはあれこれ言うのである。
文学とは、それが面白いという少数の人のために存在している幸福な精神の結びつきなのである。
設問2
筆者は、「文学を読むこと」を幸福を知ることとしている。その理由は、文学について批評する人がいるからである。
私は、この筆者の理由に反対である。
たしかに、「文学を読むこと」は幸福を知ることになると私も思う。
しかし、現代における「文学を読むこと」の意味は、文学を読むことで教養を得て新しい世界観を獲得し、それをもとにほかの人とは違う仕事をしてお金を稼ぐことにあると私は思う。その結果、得たお金で健康や時間、精神的な豊かさ、つまり幸福を知ることができるのである。
現代社会では日本の中でも格差が進み、グローバル化により競争も激しくなってきている。しかし、図書館に行けば文学を誰でも無料で読むことができ、その結果上記のように高収入を得ることができる。
たしかにお金イコール幸福ではない。しかし、お金がなければ食べ物を買えずうえるし、健康も害する。また、たくさん働かないといけないから時間が無くなるし、心の余裕もなくなる。
一方で、お金があれば、嫌な仕事をしなくていいし、時間や健康をお金で買えるし、心の余裕も出てきて人にも優しくできる。
よって、現代における「文学を読むこと」は幸福を知ることになるのである。
以上
答案作成時間:約1時間
【感想】
設問2はもう少し書いたと思いますが、だいたいこんな内容です。
反対意見への考慮がほぼ皆無で内容が微妙なのでE・Fを割けることができれば御の字だと思います。
それにしても、今年の一般教養は最後だったから試験委員会のメッセージ的なものを感じました。
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