第1 設問1
法律のない社会だったら万人にとって不幸なことになる。そこで、万人は共同体全体の利益も自分個人の利益も、何らかの保護の共通の絆にはいることによって一番よく実現するだろうという結論に至る。そしてわれわれはその共同体の要請から自然に発生する政府を持つことになるが、その要請とは、社会のあらゆる場面で政府の介入を求めるものではない(このような介入はしばしば正しいバランスを破壊して、矯正されるべき悪よりも大きな悪を産み出すから、苦しみと混乱以外は何ももたらさないだろう)。ここで、社会の法則は、自然な悪から自ら矯正するような性質的なものであり、神による創造の他の部分と同様に、すべての要素を均衡状態に保つ美しい自己調整原理が社会の中にも存在する。そうすると、人々が何のために政府を求めるのかというと、通商の規制等のためでなく、単に人間の自然権を守るため、要するに正義の執行のためにすぎない。これが政府の自然な、元来の任務であり、政府はそれよりも少ないことも多くのことも行うべきでない。
第2 設問2
本文における著者の主張は、格差が広がった今日の社会において、あまり評価を得られないだろう。
教育を受ける権利はたしかに大事なものだが、人間の自然権、つまり人身や財産といった重要な利益とは異なる。とすると、著者の主張によれば、政府は教育について介入するべきではない。しかし、そうすると不都合が起きる。
格差が広がった今日の社会では、お金持ちの家の子は私立の学校に通うことができる。それだけでなく、家庭教師をつけてもらえたり、塾に行けたりする。このようにお金持ちに家の子たちは教育を受ける権利が政府なしに保障されている。
一方で貧しい家庭では食べる物や住む所、着る物の費用を出すだけでいっぱいいっぱいなこともある。とすると、政府が無料もしくは格安で教育を受ける機会を与えなければ、貧しい家の子は教育を受ける機会が保障されないのだ。
教育を受けられないことは、人生に大きく影響する。教育を受けた子どもは様々な選択肢が与えられ、その中から自分が得意なことを仕事にできる。得意なことだからこそ成果が上がり収入も上がりやすいだろう。つまり、豊かな生活が送れるのだ。一方で教育を受けなかった子供は、その結果選択肢が狭まり、肉体労働のような単純労働しか選べない場合がある。そういった仕事は収入が伸びにくいだろう。とすると、教育を受けなかった人はそのためにずっと貧しくなってしまう。
上記のようなことはあってはならない。人は生まれる家庭を選べないからだ。そのため、貧しい家庭に生まれた子どもでもお金持ちの家の子のように自助努力ではい上がれるよう、“教育の機会“というスタートラインはなるべく平等になるよう政府は教育に介入すべきである。
以上
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